千葉県松戸市に生まれる
父はサラリーマン
母は専業主婦
二つ上の姉がいた
4歳の時父の転勤で愛知県岩倉市に引っ越す
通っていた幼稚園でヤマハ音楽教室がありグループレッスンを受ける
そこでは楽譜が全く読めるようにならず何を習っているかわからない状態だった。
(ピアノとの出会い)
その後本格的にピアノを習いたいと思い母がピアノ教室を探してくれたところお友達のお母様の紹介で指導力に定評があり優秀な生徒さんを輩出している実力派のピアノの先生のお教室に7歳で入門。
ピアノレッスン以外にソルフェージュ聴音などもみっちり教わる。
母の厳しいサポートもあり毎日頑張って練習し次第にお教室で頭角を現すようになる。
(暗黒時代到来)
ピアノは順調であった一方子供の頃は内気で人前で話をするのが大の苦手だった。
活発でどこでもリーダーシップを発揮する二つ上の姉とはいつも比べられた。
小3の頃楽譜の細かい音符を毎日見ていたせいか急激に視力が落ちてきた。
当時クラスで一番背の高かった私は、いつも一番後ろの席だった。
メガネをかけさせられるのが嫌で親に視力が低下したことを言えずに見辛い黒板の文字をずっと見えるふりをして過ごしていた。
するとまたたく間に成績がダウン!
ついにあひるちゃんまで取ってくるようになった。
成績が上がったら辞めても良いとの条件で学習塾に行かされる。
当時は大手の進学塾などなかった時代
その代わり街には個人で経営している学習塾がたくさんあった。
母がなぜそこを選んだかは未だに謎で近所の人から紹介してもらったのだろう。
私が通ったのは50代くらいの夫婦が営む小さな学習塾だった。
授業の様子はほとんど覚えていないのだが今でも鮮明に思い出されるのは夫婦二人ともしゃがれ声だったこと。
子供にとってしゃがれ声=アニメやドラマに出てくる悪者であった。
おまけに笑うとキランと金歯が光って見えた。
子供の直感からとにかく早く辞めたいと思い一心に勉強した。
そしてぎりぎりお許しの範囲内の成績を取り戻して1年ほどでさっさと辞めた。
当時の写真を見るとまあなんてブスなんだろう!
自信のない表情。
明朗快活でどこへ行っても人気者の姉とのギャップに苦しみすっかり落ち込んでいたのだ。
こうして私の暗黒時代は小学校4年生まで続いたのである。
(救世主現れる)
5年生になってクラス担任が初めて男の先生になった。
名前は山田和行先生と言った。
40歳くらいの学年主任で眼孔鋭く校内ではできる先生として一目置かれていた。
この先生との出会いが私のそれからの人生を180度変える運命の出来事となる。
ある日の国語の時間、クラスの皆の前で教科書を音読することになった。
日本昔話のような物語だったと思う。
小さい頃から物語を作って一人遊びをするのが好きだった私は、音読しているうちに次第に登場人物の気持ちになり、すっかり物語の世界に入っていた。
感情がこもって抑揚のついた読み方がおかしく感じたのであろう。
教室のどこからかクスクスと笑い声が聞こえてきた。
ところがその時山田先生は言った。
『みんな聞いただろ?廣澤(旧姓)の読む声からまるで物語の情景が見えてきたようだったねぇ』
皆 シーンとなった。
クラスの皆の前で自分が生まれて初めて才能を認めてもらった瞬間だった!
(スター誕生)
それからの私は校内作品展の水彩画で金賞受賞
全クラスのリコーダーのピアノ伴奏を受け持つ
陸上の走り幅跳びの選手に選ばれる
運動会でリレーの選手に選ばれるなどあらゆる分野で力を発揮して一気に時の人となった。
自信を持たせてくれた山田先生は人生の恩人
出会っていなければ今の自分はなかったと思う。
(ストイックな中学時代)
こうして暗黒時代をようやく抜け出した私だが6年生も終わる頃には、将来音楽の道に進むことを決めていた。
名古屋の超難関高校音楽科を受験するため中学に入ると部活動も辞め、友達と遊ぶこともなく学校から帰ると毎日4時間ピアノを弾き、週に2日名古屋までピアノのレッスンとソルフェージュのレッスンに通った。
さらに田舎の中学から大都会名古屋の学校を受験するためには学内でトップクラスに入らないと受けさせてもらえなかったので勉強も相当頑張った。
今思うと中学3年間はこの年齢の子供にしてはかなりストイックな生活を送っていたと思うが目的がしっかり決まっていたので何の迷いもストレスもなかった。
むしろ厳しいレッスンを積み重ねていくうちに最後まで諦めない粘り強さ辛抱強さが培われた。
また現実から目をそらさないでありのままの自分を見つめる習慣も毎日の反復練習から身につけて行った。
そして3年後ついに憧れの名門校に合格!
天にも昇る気持ちですっかり有頂天になっていた私に待ち受けていたものは・・・
(夢と現実のギャップに唖然 ! 高校時代)
音楽科一クラス40名
トップレベルの音校だけあり、そこには芸大、桐朋、愛知県立芸大など音大ゴールデンコースを目指す天才がぞろぞろいた。
そういう人たちも普段は普通の人間だが、いざピアノに向かうと全くの別人に変身するのだ。
演奏レベルはフィギュアスケートで言うとレベル4
それはぎりぎりの点数でなんとか滑り止めセーフで合格した私にとって、一生分努力しても乗り越えられない、世界最高峰エベレスト級の乗り越えられない高い高い壁であった。
音楽の世界は才能が全てと悟った私は、ピアノの先生とも相談して音大は自分の身の丈に合った私立の学校を受験することにした。
(本当の自分に出会えた場所)
受験の年、高校3年の冬に最愛の父が亡くなる。
突然のことだった。
誰に対しても優しかった父
自分よりも先に人のために人生の全ての時間を費やした様な人だった。
家族全員が深い悲しみに包まれた。
音大に進むことも一時は諦めようとしたが、母の頑張りと周囲の人たちのサポートのおかげで、なんとか無事に希望していたフェリス女学院音楽科に合格!
憧れの横浜元町で初めての一人暮らしがスタートする。
当時のフェリスは少人数制でゆったりした雰囲気の中素晴らしい 教授陣に恵まれて 最高の環境にあった。
私立の音大ということもあり裕福な家庭に育った人が多く心が豊かで性格も皆さん穏やかだった。
その上プライベートではちゃんとピアノも弾きながら、ファッションもグルメもしっかり楽しんでいるのだ。
これまで一心にピアノばかり弾いてきたピアノバカの自分にとって、それはカルチャーショックでもあった。
キラキラ輝く自由な環境の中で次第に心の固さが緩み始めた。
そして卒業する頃には、すっかりエレガントなお嬢様に大変身していた。
(卒業後)
カワイ音楽教室に就職
約3年間ピアノ講師として40名の生徒さんを教える。
25歳で音楽教室を退職
埼玉県越谷市で母姉と一緒に暮らしながら家でピアノ教室を開く。
自宅ピアノ教室では常に20名ほど生徒さんを教えていたが、33歳になった時ふとこのままで良いのかと先の人生が不安になる。
それと同時に母姉そして私の女3人の共同生活にもピンチが訪れる!
3人の連携プレイの歯車が噛み合わなくなってきたのだ。
壮絶なバトルが繰り広げられる日々にもう限界と悟った私は、婚活を始めたのである。
(11回目のお見合い)
婚活は予想以上に難航した。
出会いはすぐにでも訪れるだろうと思っていた私が甘かった。
20代の頃もっと真剣に結婚を考えなかった自分を悔やんだ。
そして11回目のお見合い、これで最後にしようと心の中で決めて挑んだ。
目の前に現れた人物は、予想通りどころか予想をはるかに超えるほどありえない人だった!
もちろん即お断りするはずだった。。。
(人生はままならないもの)
しかしこれが神様が引き寄せたご縁というものなのか、
この後不思議なことがいくつも重なって、何と出会って7ヶ月後にはありえなかったはずの人とゴールインすることになったのだ。
そして現在、常総市きぬの里で主人と私、15歳になる愛犬キャンディ(お教室のマスコットガール)と仲良く暮らしながら、ピアノ教師として多忙でお気楽な毎日を過ごしている